プロフィール

植原 若子(うえはら わかこ)

徳島県出身

12月28日生まれ

 小学校5年生までニンジンしか食べれない、美味しい、不味いなどわかりませんでした。肉やチョコレートを美味しいと言っている人達はカッコつけて嘘をついていると思っていました。

 小学校5年生の時に、初めてオーストラリアに行きました。ホテルでバイキングを目にして、色とりどりの見た事もない料理やフルーツでいっぱい!おまけにキレイなお花が料理に添えられているのに感動をして”美味しい”の感覚がわかるようになりました。食べる量が分からずにお腹がはち切れるほどつめこみ、よく救急車にお世話になったものです。

 小学校では排尿や排便のタイミングが分からずに教室でもらしてばかりで嫌な思いをしていました。勉強も体育や図工以外チンプンカンプンで、カタカナをきっちり書けるようになったのは30歳になったくらいから。

 掛け算は小学校3年生でやっと覚えたくらい。忘れ物も多く、毎日黒板の隅に名前が書かれていました。人が怒った顔がおもしろくておかしくて怒られるたびに笑っていました。笑ったらよけいに怒られてビックリして、またおもらしをしていました。

 中学校くらいから、身体の自由がなくなりとても不便でした。頭と体が別々のように、頭では右に曲がりたいけど足が絡まるので、壁をさわるか教室の机をもつか、手を服に入れるかしないと曲がることができませんでした。

 当然トイレにも間に合いませんでした。鼻が敏感で少しの空気の変化でも鼻が真っ赤に腫れていました。皆はとても器用に歩けるし、鼻が赤くならないし、おもらしもしないし、勉強もできるので、「すごいな〜!」と毎日のように感じていました。

 小学校ではあまり目立つことのなかった友人とのコミュニケーションも、中学校ではなぜが通じなくなっていました。よく”不思議っ子”と言われてました。それは私にとって褒められていると感じていました。

 高校生の時は、身体の症状がひどく大変でした。毎日死にたいと思っていました。2年には停学になりました。3ヶ月程で学校に戻ることができました。友人とお話をしてるだけなのに、少し時間が経つと皆逃げるようにいなくなりました。

 高校を無事卒業し就職しました。3ヶ月後にはストレスで全身皮膚病に罹り、寝る時や起床時はまぶたが膿で固まり、お湯で溶かないと目が開けられなくなり、皮膚が突っ張り、立つことすら激痛でたまらなくなり、仕事を辞め入院することになりました。

 そこで玄米中心のごはんに出会い、みるみる元の身体になり、元気いっぱいになりました。

 その後、仕事に就いても、レジ内のお金の計算が何度やっても合わなかったり、仕事を覚えられなかったり、なぜかお客様からクレームが絶えなかったり、仕事仲間から相手にされなかったり、毎日売り場で泣いていました。もちろん失禁があった時の言い訳にも大変苦労しました。失禁は18歳で止まりました。

 その後もひきこもり生活を送ったり、仕事も続かなかったりと忙しい私でした。

 人の目を見る事も、自分が見られる事も嫌でした。30歳の頃までは、夏でも帽子、スカーフ、長袖4枚を着て生活している時期があったり、人への依存、物への依存も激しくありました。

 常に神様に仕事が出来るようにお願いしたりもしていました。 

 27歳で有名なスピリチュアリストの方と出会い、この状況が一変しました。

 一日にして顔つきや話し方、行動、仕事、服の組み合わせ、お昼に何を食べるか考えることが出来るようになりました。当時のまわりの人は皆ビックリしていました。

 この頃は怒るという感情も芽生え、世界が変わったことを心から喜びました。自分のやりたい事を片っ端から経験していきました。しかし、社会に出ると怒りは私にとってとても不要なものと感じ、今では手放すことができました。そして今ではやりたい事を楽しくさせていただいています。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

本人の向上心さえあれば、どのような困難と思える事もクリアできます。

私がそうでした。

今はひとりでも多くの生きとしいけるものへ愛を届けたい。

あなたにも愛が行きわたる事を祈って居ります。